日本の歴史を、時代を問わずに語っていきたいです。
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推古天皇 その一
今回は第33代推古天皇
のお話をしたいと思います。

皆様、 推古天皇と聞けば何を思い出すでしょうか。聖徳太子、蘇我馬子を思い出す方も多いかと思います。
このお二人が、政治の表舞台に出ているので、天皇様としては影の薄い存在かもしれませんね。

推古天皇は、額田部に所領をお持ちになっていたので額田部皇女と呼ばれていました。また、日本書紀では、豊御食炊屋姫天皇(とよみけかしきやひめすめらみこと)、古事記では、豊御食炊屋比売(とよみけかしきやひめのみこと)と申し上げます。
名前の漢字から想像すると料理の得意な女性であったかと思われます。または、神に御食を奉じる、巫女的な存在だったのしょうか。


推古天皇は、欽明天皇と蘇我堅塩姫の間の第4子で、用明天皇の同母妹、斉明天皇の祖父の桜井皇子の同母姉になり、崇峻天皇の異母姉にあたります。

また、蘇我氏の側から見ると、推古天皇の母・堅塩姫は蘇我馬子の姉に、崇峻天皇の母・蘇我小姉君は妹にあたります。
馬子と推古天皇は叔父姪になります。

聖徳太子の側から見ると、父・用明天皇の同母妹ですから叔母であり、母・穴穂部皇女の異母姉妹で、しかも母親同士が姉妹なので従姉妹同士で……ああ、この辺でこんがらがって参りました。
下記に表してみたのでご参照下さい。

蘇我堅塩姫――欽明天皇
皇子女
用明天皇(在位585~587)、磐隈皇女(伊勢斎宮)、臘嘴鳥皇子、
推古天皇(在位592~628、敏達天皇后)、椀子皇子、大宅皇女、
石上部皇子、山背皇子、大伴皇女、桜井皇子、肩野皇女、橘本稚皇子、
舎人皇女

蘇我小姉君――欽明天皇
皇子女
茨城皇子、葛城皇子、穴穂部間人皇女(用明天皇后)、穴穂部間人皇子、崇峻天皇(在位587~592)

ところが推古天皇と聖徳太子の繋がりはこれだけではありません。
長女の菟道貝鮹皇女(うじのかいたこのひめみこ、菟道磯津貝皇女・静貝王)は聖徳太子の正妃になっています。ただ、皇女との間に子供はなく、 皇女も早く亡くなったようです。
この皇女の他に、孫にあたる位奈部橘王(いなべのたちばな)が妃になっています。おふたりの間には白髪部王と手島女王が生まれています。

長くなりましたので、今日はここまでに致します。

8人の女帝
皆さん、こんにちは。
今、女性天皇が話題になっていますので、ちょっと趣旨をかえ、歴代の女性天皇についてご紹介致します。
最初は歴史上に登場した8人の女帝についてご紹介します。

第33代 推古天皇 
額田部皇女…敏達天皇皇后
欽明天皇皇女、母は大臣蘇我稲目の娘・堅塩媛(きたしひめ)用明天皇の同母妹


第35代皇極天皇・第37代斉明天皇
宝皇女…舒明天皇皇后
敏達天皇の曾孫、押し坂彦人大兄皇子の孫、父は茅渟王、母は吉備姫王


第41代 持統天皇 
鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)…天武天皇皇后
天智天皇皇女 母は、蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘(おちのいらつめ)


第43代 元明天皇
阿閉皇女…皇太子・草壁皇子妃
天智天皇第四皇女、母は、蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘(めいのいらつめ)


第44代 元正天皇
氷高皇女…草壁皇子皇女 母は元明天皇


第46代 孝謙天皇・第48代 称徳天皇
阿部皇女
聖武天皇第一皇女、母は藤原氏・光明皇后


第109代 明正天皇
女一宮・興子(あきこ)
後水尾天皇第二皇女 母徳川秀忠の娘・皇后和子(東福門院)


第117代 後桜町天皇
幼名を以茶宮(いさのみや)、緋宮(あけのみや)、智子(としこ)
桜町天皇第二皇女、母は関白二条吉忠の娘・青綺門院


以上の方々が、歴史上に登場された8人の女帝です。
明正天皇と後桜町天皇は江戸時代の方々で、第46代 孝謙天皇・第48代 称徳天皇の後、数百年の開きがございます。

推古天皇から元明天皇は、皇后あるいは皇太子妃となられた方々ですが、元正天皇から後桜町天皇は皇女で、ご結婚はされていません。

はい、今日はここまでに致します。
次回から、8人の女帝方の詳しいお話をしていきたいと思います。

どうもありがとうございました。
万葉集4 (天武天皇)
皆さん、大変ご無沙汰して申し訳ありません。
秋を通り越して、すっかり冬の風情となって参りました。先日、ロマン通りという場所に友人と一緒にハイキングを出かけました。田舎の田んぼを見ながら歩いたのですが、途中万葉歌碑などあって、なかなか趣がありました。
歌碑に彫られている歌は、旅先にあって故郷に残してあった妻を想う歌で、秋の野にいるとシミジミとその哀しい心根が伝わります。
辺り一面を埋め尽くす薄の原に吹く風は、カサカサと乾いた音が響かせ、静寂感をよりいっそうかきたたせます


さて、前回は大津皇子のお話でした。
話があっちこっちにとんでしまうので、ここで、ちょっと整理して、大津皇子の父である天武天皇についてお話したいと思います。
どうぞよろしくお付き合い下さいませ。

天武天皇は、最初、大海人皇子と呼ばれていました。
父・舒明天皇の第3皇子として生まれ、母は皇極(斉明)天皇で同母兄に中大兄皇子(後の天智天皇)、同母妹に間人皇女(孝徳天皇皇后)がいます。
大化の改心後、天智天皇の皇太弟となりますが、天智天皇が息子である大友皇子を次の天皇にと考えているのを知り、吉野に隠遁します。


しかし、天智天皇の死後、近江朝廷の大友皇子との間に壬申の乱が起こり、これを破り、飛鳥浄御原宮にて、天武天皇として即位しました。
皇后は鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)です。天智天皇の皇女で、天武天皇とは叔父姪の間柄になります。
天武天皇は、兄・天智天皇の皇女を、鸕野讃良皇女を含め、四人妻としています。

【皇后】鸕野讃良皇女
 所生の皇子女…草壁皇子
【妃】大田皇女(鸕野讃良皇女の同母姉)既に死亡
 所生の皇子女…大伯皇女、大津皇子
【妃】大江皇女
 所生の皇子女…長皇子、弓削皇子
【妃】新田部皇女
 所生の皇子女…舎人皇子

天智天皇は自分の娘である皇女を四人も天武天皇に嫁がせていることから、よほど弟の天武天皇に気を遣っていたと思われます。

他にも夫人や宮人に所生の皇子女がいますが、今回は皇女 所生の皇子女だけご紹介します。


ここで謎も出てきます。
実は天武天皇は天智天皇の弟でありながら、年齢が天智天皇よりという記録もあります。
また、母である皇極(斉明)天皇は、『はじめ高向王と結婚して、漢皇子を産んだ』とあり、舒明天皇とは再婚になります。
この辺は、興味を惹かれることがたくさんありますので、皆さん、それぞれに調べてはいかがでしょうか。


それでは、ここで天武天皇のお歌を一首ご紹介します。
天皇がまだ大海人皇子と呼ばれていた時代、額田王との間に呼んだお歌です。

「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」額田王


「紫の にほへる妹(いも)を 憎くあらば 人妻ゆゑに 我(あれ)恋ひめやも」大海人皇子



はい、それではこの辺で失礼します。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。


ブログ!
はなむぎ日記を変えてみました。
まずは新装開店のご挨拶♪

歴史大好きの華霞香祐と麦乃秋で、いろいろなことを語っていきたいと思っています。
史実にかかわらず、歴史小説や時代劇についても様々に。
読むのも見るのも好きなんですよね~。

では。
これからもどうぞよろしくお願いいたしますvv
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