日本の歴史を、時代を問わずに語っていきたいです。
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第37代 斉明天皇
皆様、こんにちは。前回は第35代皇極天皇のお話を致しました。
今回は、重祚されて斉明天皇となった宝皇女(たからひめ)のお話をさせて頂きます。

大化の改心後、孝徳天皇が即位され、都も難波に線とされましたが、皇太子・中大兄皇子と孝徳天皇の間が思わしくなく、やがて中大兄皇子は、母・妹(間人皇后)・皇族・廷臣を引き連れ、明日香に戻ってしまします。

ひとり難波に残された孝徳天皇は失意の内に崩御されました。

本来なら、孝徳天皇の跡を継ぐのは皇太子である中大兄皇子のはずでしたが、母・宝皇女が再度、登極し、第37代斉明天皇とおなりになりました。

登極後の業績として、皇宮・板蓋宮炎上後に川原宮に移り、さらに岡本宮を復興したほか、別邸である両槻宮・吉野宮の造営など大規模な土木工事を行いました。

とりわけ香具山の西から石上山に至る溝渠は「狂心の渠(たわぶれごころのみぞ)」と謗られました。

その上、旅行を好み紀温湯・吉野・近江比良に行幸するなど、数々の土木工事では民に多大な苦役を負担させ、数々の旅行は、民に大きな不満を抱かせました。

在位5年目の(660年)に百済が、唐と新羅によって滅ぼされた。
百済の滅亡と遺民の抗戦を知ると、人質として日本に滞在していた百済王子豊璋を百済に送りました。百済を援けるため、難波で武器と船舶を作らせ、さらに瀬戸内海を西に渡り、筑紫の朝倉宮に居て戦争に備えましたが、遠征の軍が発する前に崩御されました。

筑紫の朝倉宮造成にあたって、神木を切ったために、天皇が病気にかかられたなどの話が密やかに伝わります。
また、斉明天皇の葬列を鬼が覗き込んでいたという話も伝わっています。

また、皇極・斉明天皇は、お子達である中大兄皇子と間人皇女の仲にも、大層お悩みになりました。
当時、異母兄妹であれば結婚できましたが、同母兄妹の結婚は決して許されませんでした。

数々の土木工事も、実際は天皇を隠れ蓑に、皇太子・中大兄皇子がされたものともいわれます。

わが子である中大兄皇子を母として、どのようにご覧になっていたのでしょうか…


それではこの辺で失礼します。
次回は第41代持統天皇のお話になります。

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