日本の歴史を、時代を問わずに語っていきたいです。
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第41代 持統天皇
過ぎて夏来(きた)るらし白たへの衣(ころも)乾(ほ)したり天(あめ)の香具山


皆様、この歌葉ご存知でしょうか。ご存知百人一首に登場致します。
持統天皇のお歌です。
百人一首の持統天皇の絵柄は十二単を着ていらっしゃいますが、時代的に考えれば唐風の装束を身に着けていらしたはずです。

高松塚古墳の壁画のような装束を思い浮かべて頂けばいいかと思います。

さて、皆様が持統天皇にお持ちになるイメージはどんな感じでしょうか。
天武天皇崩御後、我が子の皇太子・草壁皇子を天皇とするために、同母姉の遺児であった大津皇子を謀反の罪で葬り去った、張本人。
なんて、イメージをお持ちの方は、お出ででしょうか?

男性には、女傑といったイメージが先立って、北条政子さん同様、あまりお好きでない方が多いように思います。

正直申しますと、大津皇子の熱烈なるファンでございます私も、ちょっとムムム…でございました(苦笑)
しかし、今は違います。
偉大な女帝だと考えを改めました。

前置きが長くなりましたが、それではどうぞ持統天皇のお話についてお付き合い下さいませ。

持統天皇は、名は鸕野讚良(うののさらら)皇女、諡(おくりな)は「高天原広野姫天皇」(たかあまのはらのひろぬのすめらみこと)、「大倭根子天之広野日女」(やまとねこあめのひろのひめ)と申し上げます。

父は、天智天皇
母は、蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘(とおちのいらつめ)
大化元年(645年)に生誕しました。

同母姉の大田皇女がいます。

斉明天皇三年(657年)、13歳で、姉の大田皇女の夫でもある叔父の大海人皇子の后となりました。
当時は叔父姪の結婚は当たり前で、大海人皇子は、大田皇女、鸕野讚良皇女の異母妹である皇女をふたり妃にしています。

天智天皇は、弟である大海人皇子に、実に4人の娘を妃として娶わせました。身分の高い男性が多くの妻を娶るのが普通の時代とはいえ、大海人皇子は他にもたくさんの妃がいますが、天智天皇は大層、大海人皇子に気を遣っているように思います。
とっても不思議ですね。


さて、長くなりましたので今日はこの辺で失礼します。
どうぞ次回をお楽しみにお待ち下さいませ。

ありがとうございます。

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第37代 斉明天皇
皆様、こんにちは。前回は第35代皇極天皇のお話を致しました。
今回は、重祚されて斉明天皇となった宝皇女(たからひめ)のお話をさせて頂きます。

大化の改心後、孝徳天皇が即位され、都も難波に線とされましたが、皇太子・中大兄皇子と孝徳天皇の間が思わしくなく、やがて中大兄皇子は、母・妹(間人皇后)・皇族・廷臣を引き連れ、明日香に戻ってしまします。

ひとり難波に残された孝徳天皇は失意の内に崩御されました。

本来なら、孝徳天皇の跡を継ぐのは皇太子である中大兄皇子のはずでしたが、母・宝皇女が再度、登極し、第37代斉明天皇とおなりになりました。

登極後の業績として、皇宮・板蓋宮炎上後に川原宮に移り、さらに岡本宮を復興したほか、別邸である両槻宮・吉野宮の造営など大規模な土木工事を行いました。

とりわけ香具山の西から石上山に至る溝渠は「狂心の渠(たわぶれごころのみぞ)」と謗られました。

その上、旅行を好み紀温湯・吉野・近江比良に行幸するなど、数々の土木工事では民に多大な苦役を負担させ、数々の旅行は、民に大きな不満を抱かせました。

在位5年目の(660年)に百済が、唐と新羅によって滅ぼされた。
百済の滅亡と遺民の抗戦を知ると、人質として日本に滞在していた百済王子豊璋を百済に送りました。百済を援けるため、難波で武器と船舶を作らせ、さらに瀬戸内海を西に渡り、筑紫の朝倉宮に居て戦争に備えましたが、遠征の軍が発する前に崩御されました。

筑紫の朝倉宮造成にあたって、神木を切ったために、天皇が病気にかかられたなどの話が密やかに伝わります。
また、斉明天皇の葬列を鬼が覗き込んでいたという話も伝わっています。

また、皇極・斉明天皇は、お子達である中大兄皇子と間人皇女の仲にも、大層お悩みになりました。
当時、異母兄妹であれば結婚できましたが、同母兄妹の結婚は決して許されませんでした。

数々の土木工事も、実際は天皇を隠れ蓑に、皇太子・中大兄皇子がされたものともいわれます。

わが子である中大兄皇子を母として、どのようにご覧になっていたのでしょうか…


それではこの辺で失礼します。
次回は第41代持統天皇のお話になります。

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