日本の歴史を、時代を問わずに語っていきたいです。
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推古天皇 その二
皆さん、こんにちは。前回に引き続きまして、推古天皇のお話です。

推古天皇は、敏達天皇の大后(皇后)広姫がお亡くなりになった後、大后(皇后)になりました。
敏達天皇は父:欽明天皇の第二皇子で、母石は姫皇女(いしひめ:宣化天皇の娘)です。推古天皇とは異母兄妹の間柄になります。

推古天皇――敏達天皇

皇子女
竹田皇子、尾張皇子、菟道貝蛸皇女、小墾田皇女、軽守皇女、田眼皇女、桜井弓張皇女

残念ながら、二人の間に生まれ皇子女は表舞台には出てきません。長男にあたる竹田皇子も早く亡くなったようです。

さて、敏達天皇の後に、用明天皇(聖徳太子の父天皇)が皇位を継ぎますが、在位2年にして亡くなってしまいます。
当時は、長子相続となっておらず、また、母親の身分によって皇位を継ぐ皇子の順位が決まっていました。
皇位に名乗りを上げたのは、用明天皇の大后(皇后) 穴穂部皇女の同母弟である穴穂部皇子でした。

穴穂部皇子は廃仏派の物部氏と通じていました。当然、崇仏派の蘇我氏はおもしろくありません。その上、額田部皇女(推古天皇)は*敏達天皇殯宮事件で、穴穂部皇子を毛嫌いしています。

*敏達天皇殯宮事件

皇位を自分のものにしようとした穴穂部皇子が、敏達天皇の殯宮に籠もっていた推古天皇(当時は大后)に、強引に迫ろうとし、殯宮を守っていた三輪逆(みわのさかし)に追い払われた事件。
**殯宮…天皇・皇族の棺を葬儀が執り行われるまで、仮に安置しておく御殿。あらきのみや。もがりのみやという

ここに確執が生まれます。
とうとう、穴穂部皇子は誅され、物部氏と蘇我氏の間に戦いが生じます。戦いは蘇我氏の勝利に終わり、皇太后であった額田部皇女(推古天皇)が詔を下して泊瀬部皇子(崇峻天皇)に即位を命じましたが、五年後には、馬子の指図により崇峻天皇が暗殺されてしまいます。翌月、先々代の皇后であった額田部皇女(推古天皇)が、馬子に請われて、豊浦宮において即位しました。推古天皇の誕生です。

甥にあたる聖徳太子は皇太子となり、摂政として、蘇我馬子と共に政治面を補佐しました。その後、622年に聖徳太子が亡くなり、626年に蘇我馬子が亡くなり、推古天皇の晩年は寂しいものだったと思われます。
そして、628年3月7日、推古天皇崩御亡、75歳でした。

死の前日、田村皇子、山背大兄王を枕元に呼び、それぞれに遺言を残しますが、後継者は指名しませんでした
それが原因となり、田村皇子、山背大兄王との間に皇位継承争いが生じ、敗れた山背大兄王は蘇我蝦夷による襲撃を受け、斑鳩寺に逃れ、一族20人もろとも自害します。これにより聖徳太子の嫡流は滅びてしまいます。

田村皇子…父・押坂彦人大兄皇子(敏達天皇皇子)、母・糠手姫皇女。
山背大兄王…父・聖徳太子(厩戸皇子)、母・蘇我刀自古郎女(蘇我馬子の娘)

その後、蘇我氏がどうなったかは、皆さんもご存知の通りです。

次回は皇極・斉明天皇のお話です。


☆お奨め本
【漫画】
日出処の天子・馬屋古女王……山岸涼子
聖徳太子        ……池田理代子


【黒岩重吾作品より】
紅蓮の女王 小説推古女帝  
斑鳩王の慟哭       
聖徳太子 日と影の王子 全4巻
斑鳩宮始末記
磐舟の光芒 物部守屋と蘇我馬子 上・下

推古天皇 斑鳩に桃李咲く……三枝和子
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