日本の歴史を、時代を問わずに語っていきたいです。
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第35代皇極天皇
今回は(こうぎょくてんのう)についてお話したいと思います。
皇極天皇は重祚されて、第37代斉明天皇にもなられました。


*諱(いみな)を宝皇女(たからひめ)、天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)
、天豊財重日足姫尊(あめとよたからいかしひたらしひめのみこと)も申し上げます。
*実名を漢字表記した名前を諱(いみな)という


父…押坂彦人大兄皇子の子・茅渟王(ちぬのおおきみ)
母…*吉備姫王(きびひめのおおきみ)の長女として生まれました。

*吉備姫王は欽明天皇の孫にあたります。

最初、高向王と結婚し、漢皇子を産みますが、後に舒明天皇の皇后となり、中大兄皇子(のちの天智天皇)、
間人皇女(孝徳天皇皇后)、大海人皇子(天武天皇)を産みました。

舒明天皇崩御、継嗣の皇子となる皇子(中大兄皇子、古人大兄皇子、山背大兄王と皇位継承者が並びたったため)が定まらず、
皇位継承の争いを避けるため、舒明天皇の皇后であった宝皇女が、皇極天皇として即位しました。
推古天皇から一代後の、女帝となります。

皇極天皇の治世には天変地異が絶えず、皇極元年6月、長い日照りが続いた為、群臣らによる雨乞いが行わましたが効果がなく、
大臣蘇我蝦夷が諸寺に命じ、大乗経典を読み上げてみたものの、わずかしか雨が降りませんでした。
そこで皇極天皇が南淵の川上で跪き、四方を拝し、天に祈ったところ、雷鳴と共に大雨が降り、5日間降り続け、地を潤したの
で、民や百姓は天皇の徳をたたえたといいます。

また、この当時は、土木工事も盛んに行われました。

その一方で、蘇我氏の専横が目に余るものになり、天皇家をないがしろにした上、病気がちになった蘇我蝦夷に代わり、子の入鹿
が密かに紫冠を抱いて大臣の地位になぞらえ、古人大兄皇子を天皇に擁立せんと山背大兄王一族を滅亡へと追い込みました。
入鹿のあまりにも傍若無人な行為に、父の蝦夷でさせ、蘇我氏の将来を憂えたようです。

蘇我氏の反感は募るばかりです。特に、皇極天皇を母に、舒明天皇を父にもつ中大兄皇子の心中はいかがなものだったのでしょうか。
さて、これから大化の改心へと繋がるのですが、あまりにも有名なお話なので、ここでは割愛致します。どうぞご了承ください。

舞台は一転して、蘇我入鹿が刃に倒れながら、皇極天皇に助けを求めます。
皇極天皇は、中大兄皇子に真意を尋ね、そのまま御簾の中にお隠れになりました。そして、その後、退位され、同母弟である孝徳
天皇が即位されました。

孝徳天皇の皇后には、皇極天皇の皇女である間人皇女がおなりになりました。

はい、今回はここまでにさせて頂きます。どうもありがとうございました。


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推古天皇 その二
皆さん、こんにちは。前回に引き続きまして、推古天皇のお話です。

推古天皇は、敏達天皇の大后(皇后)広姫がお亡くなりになった後、大后(皇后)になりました。
敏達天皇は父:欽明天皇の第二皇子で、母石は姫皇女(いしひめ:宣化天皇の娘)です。推古天皇とは異母兄妹の間柄になります。

推古天皇――敏達天皇

皇子女
竹田皇子、尾張皇子、菟道貝蛸皇女、小墾田皇女、軽守皇女、田眼皇女、桜井弓張皇女

残念ながら、二人の間に生まれ皇子女は表舞台には出てきません。長男にあたる竹田皇子も早く亡くなったようです。

さて、敏達天皇の後に、用明天皇(聖徳太子の父天皇)が皇位を継ぎますが、在位2年にして亡くなってしまいます。
当時は、長子相続となっておらず、また、母親の身分によって皇位を継ぐ皇子の順位が決まっていました。
皇位に名乗りを上げたのは、用明天皇の大后(皇后) 穴穂部皇女の同母弟である穴穂部皇子でした。

穴穂部皇子は廃仏派の物部氏と通じていました。当然、崇仏派の蘇我氏はおもしろくありません。その上、額田部皇女(推古天皇)は*敏達天皇殯宮事件で、穴穂部皇子を毛嫌いしています。

*敏達天皇殯宮事件

皇位を自分のものにしようとした穴穂部皇子が、敏達天皇の殯宮に籠もっていた推古天皇(当時は大后)に、強引に迫ろうとし、殯宮を守っていた三輪逆(みわのさかし)に追い払われた事件。
**殯宮…天皇・皇族の棺を葬儀が執り行われるまで、仮に安置しておく御殿。あらきのみや。もがりのみやという

ここに確執が生まれます。
とうとう、穴穂部皇子は誅され、物部氏と蘇我氏の間に戦いが生じます。戦いは蘇我氏の勝利に終わり、皇太后であった額田部皇女(推古天皇)が詔を下して泊瀬部皇子(崇峻天皇)に即位を命じましたが、五年後には、馬子の指図により崇峻天皇が暗殺されてしまいます。翌月、先々代の皇后であった額田部皇女(推古天皇)が、馬子に請われて、豊浦宮において即位しました。推古天皇の誕生です。

甥にあたる聖徳太子は皇太子となり、摂政として、蘇我馬子と共に政治面を補佐しました。その後、622年に聖徳太子が亡くなり、626年に蘇我馬子が亡くなり、推古天皇の晩年は寂しいものだったと思われます。
そして、628年3月7日、推古天皇崩御亡、75歳でした。

死の前日、田村皇子、山背大兄王を枕元に呼び、それぞれに遺言を残しますが、後継者は指名しませんでした
それが原因となり、田村皇子、山背大兄王との間に皇位継承争いが生じ、敗れた山背大兄王は蘇我蝦夷による襲撃を受け、斑鳩寺に逃れ、一族20人もろとも自害します。これにより聖徳太子の嫡流は滅びてしまいます。

田村皇子…父・押坂彦人大兄皇子(敏達天皇皇子)、母・糠手姫皇女。
山背大兄王…父・聖徳太子(厩戸皇子)、母・蘇我刀自古郎女(蘇我馬子の娘)

その後、蘇我氏がどうなったかは、皆さんもご存知の通りです。

次回は皇極・斉明天皇のお話です。


☆お奨め本
【漫画】
日出処の天子・馬屋古女王……山岸涼子
聖徳太子        ……池田理代子


【黒岩重吾作品より】
紅蓮の女王 小説推古女帝  
斑鳩王の慟哭       
聖徳太子 日と影の王子 全4巻
斑鳩宮始末記
磐舟の光芒 物部守屋と蘇我馬子 上・下

推古天皇 斑鳩に桃李咲く……三枝和子
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